儒教の真意とは。支配工学としてのキリスト教。 大衆を支配するにはレベルをワザと落としてあげる。

儒教と聞いて親孝行、教師を敬う、歳上を敬う道徳の羅針盤のようなイメージを持つ人は多いと思う。

しかし儒教と聞いてその視点を持っている人は支配工学のテクニックに組み込まれている可能性がある。

儒教で個人的な儀礼を説くのは

一段階目『修身』、
二段階目『斉家』家族の繋がりの重要性、養子縁組など。
三段階目『治国』まで行くと政治学になり、
第四段階の『平天下』では軍事学が入ってくる。

チェスの様に自分の手コマ(自国民)を動かして他軍と戦う術だ。
儒教は実は支配者の高度の高い目線で秩序を考えている。

つまり帝王学だ。
帝王は庶民に行儀よく、秩序だって、
お上には頭を下げる様にしてもらった方が革命が起きてギロチンにかけられたりしないので安心だ。

だが儒教は敢えて親孝行や先生への尊敬といった教典の一部分をクローズアップして教える。
帝王の目線で教えると支配の手順に気付かれてしまう。
いつでも反乱される。

キリスト教はどうだろう?

まず、ローマ帝国はキリストを鞭で撃ち続けて、
拷問し、肉を裂き、人々の晒し者にして殺した。
ローマ帝国は新興勢力のキリスト教に対して、
恐れをなして非常に残酷な方法で粛正をした。

それがキリストの死後、今までの方針を180度ぐるっと変えて、
キリスト教を国教として、権力の中枢に組み込んだ。
キリストは、自分を裏切った者や、権力の言いなりになって自分を虐め殺した者、
その全てを許した。紛れも無い聖人だ。

しかし、皆さんは前言を全てを撤回して

キリストの聖人としての資質を支配の道具に変えた、ローマ帝国の存在が現在に至るまで
脈々と教会の影に在ることをご存知でしょうか?

彼らがキリストの真の偉大さを知って悔い改めたので、
キリスト教に目覚めた、訳ではないのです。
豊臣秀吉はイエズス会の背後にはローマ帝国の奥の院がある事を知っていたので
バテレン追放や26聖人磔などしてキリスト教を弾圧した。

ヒンドゥー教はどうでしょう?

ヒンドゥー教は、シツコイまでに自然の細部を徹底分析したインド哲学の廉価版だ。
世の中を瞑想に寄って詳しく観察すると、
自分の内部の経験が全宇宙を内包している様に見えるし、
外部世界が自分を瞬間瞬間形作っている様にも見える
二方向的な世界が一元的に捉えることも出来、
カメレオンの様に宇宙の在り方も変わってしまう。

しかし、このインド哲学の基礎的な解釈は、
意識変性した状態で瞑想経験に寄って感じる必要がある。

本や言葉では中々伝わらない。難しい。

そこで、支配層は世界の概念をいちいちキャラクタライズして
子供でも無学の者でもわかる様にした。

形が消滅するマイナスの概念をシヴァと呼んだり、
分子が再構成されて物が生まるプラスの概念をビシュヌ、
宇宙の場自体をブラフマン、という具合に各事象にラベリングした。

この技術についてはヒトラーが『我が闘争』の中で、
『大衆を操作するには1番底辺のレベルの者でも理解出来るスローガン』
を編み出さなければならないと明言している。

世の中の教義とか宗教の大半は一般大衆操作術や、帝王学が随所に盛り込まれている。


ニーチェと言う哲学者がドイツにいた。
彼はいかにカトリック教会が支配の為の帝王学によって作られた装置であるのかを非常に明確に、
露骨なまでに露わにしてくれた。

ニーチェと言う哲学者の本当に言わんとしてる本質は、この見えざる支配構造からの脱却である。

 

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